下り坂(124)
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平成十八年四月に哲也はグループ会社で新しくできたA空輸総合研究所に出向となった。もしかすると片道切符になってしまうと感じたのは、広報室の出版物業務や人事部の新人研修業務がここに移管されていることだった。各地の空港業務も分社化され、中枢は持ち株会社となる見込みだった。
肩書きは副主任研究員で扱いは課長補佐のままである。副が取れれば本体では課長・次長、主席研究員が本体における部長という位置づけである。研究所は六十人でスタートし、研究部門、出版部門、教育部門の三つから成り立っていた。哲也は研究部門に配属され、山口県の観光振興というプロジェクトを担当することになった。
哲也が出向となる直前に新しい北九州空港がオープンした。新しいエアラインS航空が真っ黒に塗ったエアバスA320をデビューさせて北九州は朝五時半から夜十時半、羽田は朝六時から夜十一時という出発時間帯を設定した。哲也は北九州の朝五時半は速すぎるのではないかと見ていた。
哲也は北九州の空港に関する研究会には必ず出席していた。S航空は北九州をベースにいずれは韓国や中国にも路線を広げると意気込んでいた。北九州空港の背後圏は山口県の西部や大分県の北部も想定されていて山口県側は宇部との競合という悩みがあった。既に下関は完全に取り込まれていた。
山口県の東部にある岩国は米軍基地を民間との共用に使用という動きをしていた。そうなった暁にはA空輸に路線を開設してほしいというのが地元の意向である。A空輸が設立されたころ、東京や大阪から岩国を経て小倉に飛ぶという路線もあった。その後、岩国経由はなくなって東京と福岡、大阪と小倉となっていた。
島根県の西部に十五年前にできた石見空港は、萩という名も加えられて山口観光の玄関口の位置づけとなったが、ここもA空輸のみ一日一便と伸び悩んでいた。山口県に最初に出張したのは五月だった。宇部に飛んで県庁の観光課を尋ねていろいろなプロジェクトの手伝いを依頼された。
2回目は六月に萩・石見空港に飛んでレンタカーを借りた。運輸政策研究所に出向していたときに地方でならレンタカーにしたほうが安上がりということで、ペーパードライバーから脱するように務めた。東京でも教習所のペーパードライバー対策のコースには顔を出していた。
レンタカーで萩の街に入ったが、狭い路地はさすがに敬遠した。それから秋吉台、防府、と見て回って宇部空港に乗り捨てた。何を観光の売り物にするかは難しく、結局は駆け足での広域観光としか考えられなかった。宿泊は萩のホテルにしたものの、アピールは明治維新の街よりも温泉かなと思った。
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