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2013年4月12日 (金)

軍艦のある丘

 小田原の北東、国府津から松田にかけて連なる丘陵地帯がある。その北端に建つ十八階建ての巨大なビルが、大学を卒業して最初の職場になった。入社して最初の一ヶ月は横浜市の西部にある研修施設で過ごし、五月になってここに配属された。全国で集められた生命保険契約の書類を受け付けて引き受けの可否を決めるのが業務である。

 酒匂川の流れる平野を見下ろす丘は標高百メートル前後だった。独身寮は職場から歩いて十分の場所にあり、二十メートルくらい低くなっていた。四枚の細い板を端っこの部分だけ重ねたような八階建てで、白い壁はビジネスホテルのような感じである。横浜の研修施設は斜面にあって地下一階と思える部分が一階となっていたが、ここもまた地下一階の浴室が実質の一階で、玄関は二階だった。

 部屋は六階ですぐ前が手洗いである。四階は洗濯室と物干場となっていたが、夜の物干場は吹き込む風の冷たさと無数にぶら下がる衣類で不気味だった。廊下は平野側に面していて天気がよければ富士が見えた。各部屋は東向きで眼下には段々畑や農家、正面にはさらに高い丘があった。南のほうには寮に住む者の「第二駐車場」と一戸建ての社宅が並び、その先には小田原の街と相模湾が見えた。

 部屋は幅三メートル、奥行きが五メートルでドアのすぐ内側に洗面台、その奥にキャビネット、ベッドの横には机と椅子が備えられていた。暖房器具はやたらに大きいが、冷房はなかった。もっとも窓を開ければさわやかな風がいつも吹き込んだ。

 食堂は一階にあり、日曜日以外は朝食と夕食、日曜日は三食出た。不在のときには「欠食届」を出すようにと入寮のときに管理人から言われた。玄関前には「第一駐車場」があったが、免許は持っていても車は持たなかったので、申請はしていなかった。

 職場までの道は半分くらいのところまでが緩い上り坂で、平坦になったところからは平野が見下ろせた。鏡を並べたような水田の中にオレンジ色の外壁の町役場があり、御殿場線の築堤をオレンジとグリーンのツートンカラーの電車が駆け抜けた。職場の建物は四階部分までの低層階と十八階までの高層階の二つに分かれていた。遠くから見ると戦艦のように見えた。低層階の屋上にある排気ダクトのようなものが相模湾に向けた大砲のイメージだった。

 

 

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