下り坂(103)
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平成十二年の年明けは西暦二千年でコンピュータトラブルの続出が懸念された。システム関係は正月休みなしだが、哲也は例年通り小倉に戻り、母校の初稽古にも臨んだ。ノストラダムスの予言は当たらなかったが、自社養成パイロット志望が叶わずに鉄道会社に就職した者が操縦するのを目的に会社の747をハイジャックして機長を殺害するという事件が起こり、しばらくは稽古どころではない日々だった。
十一月に受けた八回目の審査は不調だった。有効になる当たりはなく、もちろん番号はなかったが、出小手を取られた相手が合格していてそれはそれで参考になった。N中は初めて団体で全国に進んだ。やはり共学になってテンションが上がったのかと中田とのメールではそのように言った。主力は二年生なので、次の年も期待が持てた。
三十七期のホームページはもちろん、母校のホームページもチェックするようになった。家でもインターネットが出来るようにしてプロバイダの契約を結び、簡単に作れるホームページで剣道やロンドンに行ったときの写真を入れたものを公開した。K高は修学旅行でニュージーランドへ行くようになっていて、N中出身の剣道部員が現地の高校との交流で剣道形を披露したのもインターネットで知った。
新しくなった体育館は二階建てで、一階に柔剣道場と食堂、二階がアリーナである。校舎の二階部分から講堂の脇を通って二階に直接つながる回廊まで出来ていた。剣道場のある位置はかつてのプールで、プールは体育館の横に新しくできた建物の屋上に移った。その建物には弓道場が作られた。昔の剣道場は柔道場となり、着替えはここだった。二つの道場の間には部室、教官室が並べられていた。
新しい道場の床板はまずまずの滑りである。感覚的には古い道場のほうが遥かによかったが、東京武道館でも使われている床と同じ微妙なスプリングが時代の進歩なのかなと感じた。壁には昭和以降の部員が木札で並んでいたが、昭和三十年代より前は資料の不足で少なかった。昭和六十年卒で二十世紀最後の元旦稽古に来たのは哲也だけ、昭和四十年頃のOB会長は手術直後で見るだけとなり、稽古するのは哲也が筆頭、それから昭和六十三年卒、その後は平成三年以降が揃っているという状態である。
三年生引退後の現役部員は男子7人、女子六人である。一番端にN中のゼッケンをつけている者がいた。参加していた中学生が入学するというのケースも哲也の知る限り二つほどあり、名を見ると女子の一年生の尾崎の弟かなと哲也は思った。
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