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2013年3月14日 (木)

杉山寅之助・伝

先を急ぎたいので 木曜は小説をやるつもりなかったけど・・・

 

 夕方から萩の街に降り始めた雨は夜になって激しさを増した。吉田松陰が収容されている野山獄は海風も加わって隣の牢の物音すら聞こえない状態である。その夜、松蔭の牢を年上の女囚人が訪れた。野山獄では松陰が他の囚人に学問を教えるために囚人同士が行き来することが黙認されていた。江戸送りが決まった松陰が二度と戻らないであろうことは皆が悟っていた。風雨は夜通し続いた。牢で何が起きていたのか牢番も他の囚人も知る由がなかった。

 明治二年の夏のある日、山口明倫館で兵学を教授する弘中平蔵が萩の街を訪れた。藩庁が萩から山口に移動したとき、弘中も帯同を命じられたが、萩に残された者も多かった。牢の中で生まれた子供をどうしたらよいかと野山獄の責任者だった馬屋原から相談された弘中は、子供のいない明倫館の剣術師範杉山庄助に託すことにした。松陰の子であることは伏せ、庄助夫婦は子供を寅之助と名づけて育て始めた。

 明倫館にある剣術道場の有備館を覗くと、剣術の稽古の真っ最中だった。まだ十歳の寅之助が年嵩の少年たちに混じって稽古していた。大柄の相手の面をかわして胴を打ち、相手の反撃で突き飛ばされた寅之助が道場中央の敷居につまずいて床に大の字に倒れた。面を外されると松陰の面長を受け継いだ顔が現れた。

「寅之助君を藩主の下で学問をさせるという話があるんだが」

 師範用の六畳間に入った弘中は庄助にそう伝えた。寅之助が剣術よりも学問に才があるのではないかという噂は藩主の耳にも届いていて、長州藩から明治政府に送り込む重要な人材として育てようという機運が起こっていた。

「私もそのほうが本人のためになるのではないかと思います。よろしくお頼みいたします」

 数日後、寅之助は弘中に連れられて山口へと向かった。松陰が最後に萩の街を目に焼き付けた同じ場所で、寅之助も後ろを振り向いた。二つの川に挟まれた三角州、城の後ろにそびえる指先のような形をした山、沖に点々と浮かぶ平たい島。それから寅之助は弘中のあとを汗だくになりながら山道へと進んだ。 

 

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