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2013年3月26日 (火)

下り坂(115)

前回までの 内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧くださいm(_ _)m

 二年間の出向が終わって哲也が戻ったのは本社の経営企画部だった。広報室とは隣り合わせである。哲也に与えられたのは「ボーイングから提案された新機種の導入」という課題だった。7X7と呼ばれるその機体は当初、音速ぎりぎりのスピードで飛ぶという触れ込みで計画されたが、同時多発テロによる航空需要の落ち込みで「燃費重視」という方向になった。

 Xはたぶん8になるというのは今までの流れから予想できたが、世界の主なエアラインはどうするか図りかねていた。М重工を中心とした日本の航空機産業は新機種の製造に参加することを期待していて、こちらもA空輸に働きかけていた。哲也は平田とも接触することとなった。もちろん仕事の上なので「ダイスケ」「テツ」ではなく、「平田係長」「岡部課長補佐」と呼び合った。

 新機種は乗客数が250~300人で、航続距離は1万4000キロを目安としていた。767の改良で航続距離を伸ばせば済むという見方もあったが、新機種の売りはカーボン竹刀にも使われている軽くて丈夫な炭素繊維を尾翼のみならず主翼にも使うことで従来の機種よりも燃費を格段に上げるということだった。国内線では767の後継となり、国際線でも需要はそこそこだが、距離的には大型機でないと難しいというような路線がターゲットである。

 オーストラリアや南米はA空輸にとって空白エリアだし、アフリカにも直行便を飛ばしてみたい場所があった。ライバルのJ航空はどう考えているのか探る意味合いもあって哲也は「航空政策研究会」というところに参画していた。ここは月に一回経団連のビルで研究会をやっていて出向中も顔を出していた。

 自宅はずっと豪徳寺の賃貸である。通勤ルートは再び千代田線の国会議事堂前か霞が関からとなった。剣道も同じ場所での継続となって五月の区大会には三十歳以上の部で出場した。これは五段になると出られなくなった。四段挑戦中のIの父も同じ部で「準決勝で当たればお手柔らかに」と言われた。IはK学院大学に入ってサッカー部のままである。

 新宿にあるS高校のゼッケンを着けたМは十代男子の部だった。ここは主に高校生である。S高校は東京府の6中の流れがあった。哲也が東京に来た頃の小学生で今も続いているのはМの他に五・六名である。小中学生はその頃に比べると少し減った感じもした。

 

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