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2013年3月 5日 (火)

下り坂(92)

前回までの 内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧くださいm(_ _)m

 支店長は市立大教授の発表の途中で会場に入ってきた。質疑が終わって教授が壇を下りると司会が簡単な紹介を始めた。A空輸入社は哲也が生まれた年である。哲也が入社したときには人事にいたが、最初は大阪、それから本社の営業本部、那覇、札幌という具合に国内の支店を回っていた。

 まずスカイドリームが東京と福岡に参入しようとしているということに触れ、大阪と東京や福岡は新幹線との競争が激しく、新幹線の整備によって大阪と西日本の空路に影響が及ぶという見方を示した。哲也は三百キロで走る「のぞみ」を大阪と小倉の間で利用したが、背中を押されて飛ぶ感覚、遠間から飛び込み面で突き抜けたようなスピードに驚いた。車体の断面も丸みがあって小型のジェット機そのものだった。

 八代と鹿児島から先に新幹線を着工したのは熊本で打ち止めにするつもりはないという戦略だろうと支店長は行った。博多と八代で乗り換える必要がしばらく残るものの、博多と鹿児島を完全に新幹線にすると大阪と熊本はもちろん鹿児島も新幹線との競争が激しくなるはずだった。

 大分は小倉で「のぞみ」と乗り換える必要があるものの、大分の空港が不便な場所にあることで航空は少し不利だった。JRの在来線も小倉と大分は百三十キロで走れるようになり、佐賀にできる空港も何のために作ったのかよくわからない状況である。宮崎の場合は空港に鉄道が乗り入れてこれはアクセスの改善となった。

 大阪は関西国際空港の位置がどうしても厳しく、伊丹のほうが便利というのが予約の状況にも現れていた。伊丹の空港にモノレールが乗り入れるようになって、千里から門真にかけてのエリアは新幹線にするか航空にするかで綱引きである。伊丹の空港は発着枠が国際の分が空いたとはいえ、やはり時間制限が痛かった。

 もしも新しく参入するとしたら関西と宮崎・熊本・長崎・鹿児島・那覇が西日本エリア、東日本に対しては成田、仙台、青森、函館、札幌あたりだろうと支店長は述べた。そして使う機材も三百人乗りのボーイング767よりも百五十人乗りの737というのがベターとも付け加えた。

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