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2013年3月16日 (土)

杉山寅之助・伝(3)

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 明治三十一年の夏、山陽鉄道で土木技師として馬関までの工事に携わっていた寅之助に庄助の危篤が知らされた。寅之助は三田尻の工事現場から萩への道を急いだ。東海道の工事が終わったのち、寅之助は井上勝より山陽鉄道に派遣された。並行する瀬戸内海の水運との競合もあって資金難に苦しむ山陽鉄道の工事は井上勝が予想したよりも長くかかった。もしかすると国に買収して再び官に戻れるかもしれないという説得を受けて寅之助は移籍した。

 その井上が鉄道局長を辞任したのは寅之助にとって衝撃的だった。小橋のほうは鉄道局に残ったまま、新たな路線の計画に関わっていた。陸軍の海岸線嫌いや街の中心部への鉄道乗り入れ忌避の傾向は相変わらずで、建設ルートの設定ではいつも難渋した。井上が中仙道から東海道への変更を進言したときも山県有朋の説得が最大の関門だった。総理の伊藤博文よりも年上であり、馬関の砲台が四カ国艦隊に占領されたときにあやうく死にかけたのが陸軍のトップである山県のトラウマになっていて、鉄道は極力内陸にという意識が強かったのである。

 つづら折になった山道を歩きながら寅之助は萩にはいつ鉄道が通るようになるだろうかと考えた。鉄道があればもっと早く戻ることが出来るのである。しかしながら鉄道を敷くには萩と山口の間にある二つの峠が難問だった。瀬野と八本松で急勾配を作ってしまったが、ここはどうしても長さが十マイルくらいのトンネルを二つ掘らないと超えられないと思った。

 三田尻を朝早く出ても一日で萩にたどり着くのは難しく、佐々並で一泊した。ここは峠の間でたぶんここでトンネルの切れ目、駅も作ることになるだろうと思った。翌朝、佐々並を出て最後の峠を超え、昼過ぎに萩の街が見渡せるところにたどり着いた。寅之助が萩に戻ったのは東京に出る直前以来である。家に着いたとき、庄助は既に亡くなっていた。

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