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2013年3月11日 (月)

下り坂(100)

前回までの 内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧くださいm(_ _)m

 品川に行くのはいつものルート上にある原宿でJR山手線に乗り換えるのがベストな選択だった。六月最初の土曜日に高輪のPホテルでK高同窓会の関東総会が行われた。小冊子への広告は小倉は半ページ、東京は四分の一ページで出した。どちらも747に「あなたの オン オフに 信頼の翼」というコピー、予約のフリーダイヤルとホームページアドレスを入れたものである。さすがに自分の名とか37期と入れるのは避けた。

 二月と四月に挑戦した四段はどちらも実技で終わった。二月には「あと一人マルをくれていたら」という状況である。四月に受けたときは「ノストラダムスの予言が的中したらこれが最後」と思ったのが硬さの原因になったのかなと自省した。ワインカラーの胴に審査で初めて一撃を受けて面返し胴をやり返したが、合格したのは相手のほうだった。五月の第三日曜日は小倉の総会だが、哲也は区の大会に個人で出場した。決勝まで残ったのは大人になってから初めてだったが、小手で一本負けである。

 Pホテルへの集合は午前十一時となっていた。小倉からは井原も手伝いに駆けつけてきた。野球部を引退してみんな髪を伸ばしだしたのに、一族に禿頭が多い彼だけは、なかなか伸びなかった。W大からF銀行に就職して後ろの部分だけが長くなったのを無理やり前に垂らしたのを見て「無駄な抵抗はやめなさい」と元応援団が言った。中田はモスクワ出張と重なって東京には来れないが、小倉にはスカイドリームで行ったそうである。

 小冊子や校歌のCD、北九州市の案内パンフの詰め合わせを作りながら哲也は初めて顔を合わせた者と名刺を交換した。週一回のペースで同期が集まって準備をしたが、哲也は主に剣道関係の理由で半分くらいしか顔を出せなかった。元生徒会長に道路公団勤務の者、さらに辻や中田とも会ってはいた。小倉から来たT社の者、JRに入った者、新聞社に大学講師と様々である。

 女子も結婚して苗字が変わっている人がいた。三歳か四歳くらいの女の子が連れてこられていて、まだ結婚していない者がナンパしているのを見つかって「こいつにGPS着けないといけないなぁ」と言われていた。受付は男女それぞれ二人ずつが立ち、哲也たちはそこに詰め合わせを運んだ。総会は午後一時の開始で立食パーティの形式になっていた。

 

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