下り坂(94)
前回までの 内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧くださいm(_ _)m
平成十年の四月一日付けで哲也は本社の広報室に移動になった。異動の希望先として機材や燃料を調達する部署を挙げていたが、組織のなかで生きる身には与えられた部署で全力を尽くすことと割り切った。同期からはパリや上海の支店に赴任する者もいた。係長への昇進も一割ほど遅れる者も出てきたが、哲也は上がることができた。
広報室の業務は、会社のプレスリリース、広告宣伝、ホームページ管理、マスコミ対応、出版物という具合になっていた。機内誌やタイムテーブルの編集は旅客営業本部の範疇だが、哲也がそこにいた時に担当していたのは予約状況や運送実績の管理である。広報室では航空専門の月刊誌への対応と出版物の業務に関わることとなった。
月刊誌の取材は主として新しい機材や路線だった。四月にはエアバスA321という新しい機材が東京と鳥取を結ぶ路線に投入され、七月にはボーイング777の胴長タイプが入ることになった。哲也が大阪転勤のときに入ってきた777は全長六十メートルだったが、こちらは全長七十三メートルで747より三メートル長くなった。取材陣の就航第一便への搭乗や運航乗員へのインタビューなどの調整が広報室に来て最初の仕事となった。
出版物のほうは、広報室で年四回出している小冊子の編集と、三年前に出版した「エアライン・ハンドブック」の改訂だった。小冊子は航空関係の研究者だけでなく、エッセイストからも原稿をもらうという仕事があった。「エアライン・ハンドブック」は航空業界の歴史から航空機の技術的な話、営業、空港整備という構成で、三年間で修正が必要なものをチェックすることになった。
豪徳寺の独身寮は、会社の経費節減や若手社員の個人主義化という流れで廃止になった。代わりに家賃補助ということになったが、哲也は以前と同じ剣道連盟に戻るために豪徳寺の賃貸マンションに住むことにした。通勤のルートは表参道で乗り換えて虎ノ門からに変更である。
| 固定リンク
コメント