下り坂(109)
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朝七時半にセットした目覚ましが鳴った。ベッドを出た哲也はカーテンを開けた。窓の下から小倉駅を発車したモノレールが飛び出した。電車はゆっくりと目の前に見える平和通の停留所へ進んだ。哲也はマダ酒の残る頭で昨日と同じ服に着替えた。ネクタイは締めず、バイキング朝食の出る食堂に向かった。
平成十三年四月付けで哲也は国土交通省と関係の深い研究所に出向となった。期間は二年で肩書きは調査員である。ここにはJR、N通運、N郵船や大学から来た人が集められた。大学からだと研究員か教授以上が主任研究員、企業は課長以上が調査役という肩書きとなった。北九州の新しい空港に関する調査研究を中心に航空と観光・物流というテーマで哲也は頻繁に出張していた。
盆休みの土曜の夜にN中の同窓会発足の集まりが小倉駅北口のRホテルで行われた。哲也は羽田と北九州のD航空に小倉駅のホテルをセットにしたツアー商品を利用した。実家には出張の折に泊ることもあったが、今回はトンボ帰りである。実家の車はブルーバードシルフィというガソリン車としてはもっとも排気ガスがクリーンというのに代わっていた。色はワインレッドで内装には木目が使われてカローラより少しだけグレードが高いという幹事である。
D航空の北九州便は六月に利用した。羽田でМD87に乗るときにドアがタラップになっていたことや機内が横五列とかなり小さいことも新鮮だった。他社ということで窓側に遠慮なく座ったが、天気はよくなかった。昨日は着陸のときに内陸に回り込むコースだった。住宅地となった丘をかすめてUターンするのはとてもスリリングな感じがした。哲也は左の窓に座っていたので自分の住んでいた付近に目を凝らしたが、あっという間にわからなくなった。
小倉駅まではバスで移動してまずチェックインを済ませた。それからRホテルまで歩いて一番上の三十階に上がると受付だった。同窓会長は一期生で小学校の教員をしていた。参加予定者の名前を見ているとK高に行った者は哲也だけ、N高をはじめ他の私立に行った者しか見当たらなかった。剣道部は小松だけである。
「おや。全然変わってないね」
哲也に小松が話しかけた。顔は面影があるが、髪の生え際が後退しかけていた。哲也が名刺を渡すと「難しそうなことやっているんだね」と言われた。「A空輸から出向中なんだ」と哲也は応じた。彼の名刺は「T海上火災 徳力代理店」となっていた。他にもマンションの経営や中古車販売でビジネスに生きているそうである。
紙封筒には出席者リストに学校の案内パンフ、今年卒業した二十四期生までの名簿が入っていた。哲也はA空輸広報室ということと、住所は豪徳寺の近く。中田はI商事のロシア・東欧で墨田区のタワーマンションに住んでいること。平田はМ重工名古屋にいて社宅住まい。大塚が海上自衛隊の佐世保。斎藤は長崎市に住んでいて歯科医院を継いだことがわかった。二十四期からK高には十七人が入り、尾崎もその一人である。
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