« 東日本大震災(1811) | トップページ | 東日本大震災(1812) »

2013年3月13日 (水)

下り坂(102)

前回までの 内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧くださいm(_ _)m

 哲也は先生に名刺を渡した。「A空輸かね。そういえばこっちに来るのは新幹線になったけど、飛行機も安くなったのかな」と言われた。哲也は「早く予定を決めると半額になります」と答えたが、スカイドリームに比べるとインパクトが弱いなと思った。JRの者が「品川にも新幹線の駅が出来るので、もっと便利になります」と割り込んだ。

 井原が先生に挨拶に来て野球部のことが話題になった。先生は応援団の顧問だった。それから辻が哲也の出した広告の話に触れた。段のことも出て「まだトライスターなのが」と哲也は言った。777にしなかったのはやっぱりエンジン四発のほうが安心感があるからという理由である。

 さらにN中が男女共学になったことも小倉から来た者が言った。それは哲也も知っていて「小倉祇園の頃に夏休みをもらおうと思っているからN中の剣道部に行ってみようかな」と言うと辻が「同期から犯罪者は出したくないものです」と口をはさんだ。辻も道路公団の者も結婚していたが、哲也とJRの者は単身だった。

 イタリア料理店ではかなり長い時間貸切にしているようで、夜遅くまで飲んで食べてという状態だった。妻帯者が先生二人をホテルまで送り、辻も仕事が控えているために午後十一時にタクシーで職場に強制送還となった。道路公団の者も帰り、残ったのは元応援団にJR、生徒会長とあと二人という状態である。生徒会長を除くと独身ばかりだった。

 元応援団の話では中田には長男が生まれていた。生徒会長のほうはなかなか子供ができなくてということで、どうしてもなら俺のを提供しようかということまで言う者がいて「お前のをやると極端な年下志向の病気が遺伝する」となった。井原もこのときにはホテルに戻っていた。

 始発まで待って品川駅に行った。哲也は改札機に通せるカードを財布から出した。それは常磐線の青・緑・黄色・赤の四色の特急電車のデザインで、チケットショップで入手したものだった。みんな東京駅方面だが、哲也だけ渋谷周りだった。家に帰ったら一眠りして区の連盟稽古に少しだけ出ておこうと思った。

 

 吉田松陰に子供がいた・・・という設定で 気分転換しようと思います 続きは来週には再開の見込みです

 

 

 

|

« 東日本大震災(1811) | トップページ | 東日本大震災(1812) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 下り坂(102):

« 東日本大震災(1811) | トップページ | 東日本大震災(1812) »