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2013年2月26日 (火)

下り坂(80)

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 本社にも社員食堂はなく、昼食はビルの地下にある食堂街でということが大半だった。もちろん出先で食べることも多かったが、中には運輸省の食堂という豪傑もいた。運輸省を「A空輸霞ヶ関支店」と公言するのは天に唾する行為ではあるが、監督官庁からの天下りを引き受けて先輩から後輩にいろいろと口添えしてもらうのが、慣例になっていた。

 J航空の国内線参入は各路線ごとに集計された利用者数によって二社運航、三社運航というように決められていた。昭和六十二年以降、J航空が国内に広げたネットワークに比べると国際線の定期便が認められていなかったA空輸の拡大は微妙に鈍かった。大事故で失墜したとはいえ、J航空の影響力は依然強かった。

 アラスカの剣道がJ航空によって根付いたのはここが中継地となって整備の関係者に剣道家がいたという語り草があったし、海外に出た日本企業の剣士に現地では手に入りにくい竹刀を届けているのもJ航空だった。航続距離が伸びてアラスカ着陸が不要になってしまったが、海外拠点での日本文化のショールームという伝統はA空輸にはまだなかった。

 路線を拡大させるには機材・乗員・海外での整備体制と様々な経営資源が必要だが、他国企業との提携というのも一つの方法だった。一機で一億ドルする機材も数社で共同購入すればメーカーに対する価格交渉力も強まるし、燃料の購入も然りである。ただし、資本の提携は各国ともに「外資規制」を行っており、日本は株式の三分の一を外国人が保有することは駄目だった。また、代表者は日本国籍を持つこと、役員も外国人は三分の一を超えないことという条件があった。

 水曜日はノー残業と推奨されてはいたが、六時になったらすぐに帰るというわけには行かなかった。平日はおおむね八時くらいまで残り、途中で下車して夕食というパターンである。水曜日も六時半くらいにエレベータで下に下りるという感じだった。もちろん総合職でない社員は定時に出ていた。

 哲也は代々木上原にある牛丼の店に立ち寄って、寮に戻らずに午後八時に剣友会に顔を出した。小中学生は基本の稽古から試合稽古に入ったところで、哲也は隅に正座して見守った。大学では剣道部に入っていない者が現れたとき、先生が「剣道形を合わせるように」と言った。彼も四段を受ける資格ができて哲也と一緒に初チャレンジである。

 

 

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