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2013年2月27日 (水)

下り坂(82)

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 大阪市の南部にある住吉大社駅のホームで、哲也は難波行きの電車を待っていた。後ろの朱色の柵とロープで締め切られた一番線を急行が通過した。各駅停車しか止まらないのは少し癪な気もするが、住吉大社内にある武道館で稽古している会があったので、その点はよかった。独身寮はなく、住まいは賃貸のワンルームである。

 阪神大震災の影響で、大阪支社への転勤は一ヶ月遅れて五月一日付けとなった。震災の直後は山陽新幹線の寸断に対応するための大阪・岡山、大阪・広島、大阪・山口の臨時路線の開設で運輸省との連絡で走り回った。寮には着替えと朝食のために帰るだけで土日も出勤するという状態が続いた。

 四段の審査は十一月は実技で散った。合い面に小手面、二人目では抜き胴も見せたが、番号はなかった。二月に二回目の審査だったが、まったく稽古できない状態で、受けに行くことだけは出来たものの、体の切れが悪すぎて発表を見るまでもなかった。四月に三回目が来ると言われたが、転勤の内示があったので申し込みはしなかった。

 三月二十日の地下鉄サリン事件は直接の影響はなかったものの、哲也の定期券は国会議事堂・霞ヶ関どちらでも使えるようになっていたので、非常にショッキングだった。四月の一ヶ月間は表参道で銀座線に乗り換えて虎ノ門からというルートに変更した。難波に着くと三階から地上までのエスカレータ、さらに地下に降りて市営地下鉄の御堂筋線に乗った。

 大阪支店は梅田のD生命ビルにあり、難波・梅田ともに電車の乗る位置は同じになった。新今宮でJRの環状線に乗り換えるルートもあるが、キタとミナミの両繁華街に立ち寄るにはこれが一番便利だった。家の場所が大阪市の南になったのは、国際航空貨物の営業に関わるため、関西空港にも出向くことが多いという理由である。

 成田には貨物の専用機が飛ぶほどの需要はあるが、関西のほうはまだまだである。747の貨物専用機には百トン搭載できたが、旅客便でも四十五トンは可能だった。もっとも旅客機は手荷物・郵便が優先だったし、リチウム電池のように取り扱い注意の品目は旅客機への搭載は厳禁とされていた。

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