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2013年2月 2日 (土)

下り坂(56)

前回までの 内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧くださいm(_ _)m

 研修施設内で各地に赴任する前の最後の訓示を受け、昼食を終えてからターミナルにモノレールで移動した。座席は後方の窓側を割り当ててもらった。同じ福岡行には小倉支店に行く者が乗ることになったが、出身は鹿児島で、鹿児島支店には東京育ちの者が配属となった。

 哲也が飛行機に乗るのは初めてである。卒業旅行で海外は結局やらず、大学の卒業式の後でいったん小倉に戻り、東京に移動したときも新幹線である。飛行機のところまではバスで移動した。タラップがつけられているのはトライスターで、747に比べると座席数は6割だった。東京と福岡を結ぶ路線は徐々にトライスターから747中心にシフトしていた。

 タラップを上がって哲也は胴体後方のエンジンが取り付けられたあたりの左窓側に腰を下ろした。もう一人の同期は右の窓側である。座席は窓側と通路側がほぼ埋まっている程度で、哲也の後ろは窓側も空いていた。トライスターが動き出して左手に埋め立て工事をしている滑走路に入ると緊張感が一気に沸き起こった。

 主翼下に一つずつと胴体後方についた計3つのエンジンが唸り声を上げた。哲也は昇段審査の実技を思い出しながら40秒近い滑走、地面を蹴るように離れて海面が遠ざかるのを眺めた。主翼に収められていく補助翼が視界を広げた。下に何もなくて恐怖が増すかと思ったが、意外に怖くないのが不思議だった。

 富士山は北側にかなり雪が残った状態でそびえていた。おしぼりに続いて、お茶とあられをもらった。4年間過ごした大阪の街は北から眺める形である。すぐ下が空港で、降りていく飛行機が小さく見えた。神戸の埋め立て地や明石海峡、瀬戸内海の島々を見て、広島平野の中心にあるT字型の橋を過ぎたあたりから降下が始まった。

 地面が少しずつ近づくにつれて耳に水が入ったような感触がした。羽田を飛び立って1時間20分くらいで、関門海峡と故郷が目に入った。高度はかなり下がったが、実家や母校はさすがに区別できなかった。海面がかなり近づいて左旋回すると着陸のアナウンスがあった。

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