下り坂(84)
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関西空港支店でN社の関係者と合流して、まだ新しい施設を回った。大阪エリアの国際貨物を日本のエアラインで運ぶとなると成田まで運ぶという選択肢になるとN社の人が言った。大阪と成田の間を実はトラックで運んでいると聞いた哲也は、もしも東名で事故に巻き込まれたら荷主への説明大変ですね、と言った。N社の人は苦笑いした。
新型のボーイング777がどこに初めて飛ぶのかも関心事のようだった。この機体は胴体のくびれが少ないため、貨物搭載スペースが大きかった。747よりも全長が十メートル短いのに搭載できるコンテナの数がLDー3というタイプで二個多く詰めた。旅客数は三百五十人とトライスターの後任という位置づけだが、たぶん最初は東京と大阪、それも伊丹ではなく関西という見立てだった。
六時には解散してターミナルビルのレストラン街に行った。この建物は作りが映画撮影のセットのように簡単に組み立てて解体しやすいような感じである。福岡空港のように飛行機を眺めながらというような店は見当たらず、カレーライスのセットを食べると南海で戻ることにした。難波までノンストップのA特急は駄目だが、堺に止まるB特急の指定券を自腹で買うことにした。
武道館に着いたときには稽古は終盤に差し掛かっていた。小中学生が七十人くらいいて、それに高校生以上が二十人、指導は警察署の先生である。土曜日は夕方の五時から七時という具合だった。大阪の4段審査は七月と一月で、これは福岡と同じくサディスティクなスケジュールになっていた。七月はさすがに間に合わないが、一月には挑戦するようにと言われた。
関西エリアではA空輸の剣道部としての活動は難しかった。三十五歳を過ぎて試合よりも昇段というスタンスであったり、空港関係で時間が取りにくいといった理由である。哲也も試合より、昇段のほうに力点をおいたほうがいいと思った。三度目の正直か二度あることは・・・となるかだった。終わりの礼のときに先生が次の土曜に市立大学から出稽古に来ると伝えられた。
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