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2013年2月 3日 (日)

下り坂(57)

前回までの 内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧くださいm(_ _)m

 前方のスクリーンに福岡の街が映し出された。トライスターは軍用機の技術を応用して機首を緩やかに上げたまま高度を下げていくと言われていたが、地面が近づくにつれて緊張が増した。それは審査の剣道形のほうが緊張するのに似ていた。哲也は窓の外とスクリーンを見比べた。滑走路に設置して逆噴射の轟音が客室に響いた。誘導路に入ると機内の空気が少し和らいだが、哲也の手の内は汗で濡れていた。

 ターミナルビルへのブリッジを渡るとき、同期は小倉までどれが便利だろうかと尋ねてきた。北方というモノレールの停留所の近くに借り上げの賃貸マンションがあってそこからモノレールで通勤すると彼は言った。哲也は空港から小倉へ向かうバスがあると答えた。前年に九州自動車道の未開通だった八幡と門司の間が完成して高速バスのルートも紫川のランプから入る以前からのものと小倉南インターまでモノレール沿いに走るものに分かれた。

 哲也は博多駅行のバスに乗り込んだ。数年先には市営地下鉄が博多駅から空港まで延伸されると聞いていた。バスは空港と博多駅の間をシャトル便のように結んでいたが、座席は既に満杯だった。ターミナルビルは滑走路の北端部にあり、バスの窓からは航空機用に下のほうがくびれたコンテナや出発を待つYS11や767が見えた。信号待ちで誘導灯に挟まれたところにいるとすぐ上を窓の部分に赤と紺の帯を入れたJ航空の747が通り過ぎた。

 博多駅前で高宮方面に向かうバスに乗り換えた。福岡支店は博多駅のそばにあり、このバスが通勤手段である。寮は西鉄の高宮駅に近く、天神に出るなら電車だった。寮は4階建てになっていて三十台分の駐車場があった。一階は玄関ロビーに食堂と浴室に管理人の部屋があり、管理人は還暦を過ぎたもしかしたらOBかもしれない人である。各階にはトイレと洗濯機のある部屋があり、哲也は三階の一番端320だった。部屋は幅3メートル、奥行き5メートルで洗面台、クローゼット、ベッドに学習机とイスがついていた。

 部屋の真ん中には東京から送った段ボール2箱が置かれていた。寮にはテレビはなく、14インチくらいを買っている人が多いと管理人は言った。電話は公衆電話と寮宛ての呼び出し式があるが、各部屋でつけることを推奨された。駐車場はいまのところ敷地内に五台余裕があると言われた。食堂は朝七時半から九時 夕方六時から八時までで都合で食べないときは前日までに届を出すことになっていた。

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