下り坂(77)
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車座になって順に新年の抱負を述べるのは例年通りだった。OB側にはAビールの350ミリ缶、現役はもちろんジュースである。現役は出身中学と今年の目標、そして大学生へと移り、四年生の一人がKビールに決まって、K高同窓会の定番がAビールになっているのを変えてみせると宣言した。もともとはKビールだったのが、S銀行からAビールに移った旧制中学時代の卒業生の力で変わった。
永井は来ていなかったが、彼と同じ期の者は広告代理店のD社のゼッケンをつけていた。実業団にも出場していると言ったが、日本武道館は広すぎてそのときは気づかなかった。永田はS商業で剣道部の顧問をしていて、練習試合をさせてもらったお礼と今年もまたお願いしたいということを述べた。それから哲也の番が来た。
「昭和六十年卒業。三十七期の岡部です。A空輸の本社で営業の関係をやっております。去年クジラをデザインしたジャンボをデビューさせましたが、あの準備でいろいろとやりました。稽古のほうは週一回ですが、何とか続けるようにしています。現役の皆さんは文武両道でがんばってください」
福岡支店にいたときに哲也はキャンペーンの案として小中学生から747のデザインを公募する提案をした。同じような提案はいくつかあり、東京に転勤したときにそのプロジェクトに加わった。集まった案にはクジラの他にエビフライといったものもあった。ボーイング社での塗装作業に立ち会うことはなかったが、セレモニーに参加して一度だけ機内に入った。そういう話までするのは「年寄りの長話」になってしまうので省略した。
最後に八段の先生となって、長話は十五分に及んだ。中国大陸に出征した話は現役時代からずっと聞いていて、戦後に剣道が占領軍から禁止されて教員をすることもできず、右翼か暴力団になろうかと思ったということまで出てきた。そして校歌を歌ってお開きになった。
駅の近くで二次会という話になったが、哲也は93番のバスで実家に帰ることにした。同期はいないし、大学生と話がかみ合わなくなっているからである。年賀状の返事も書いておきたかった。斎藤はK歯科大に残り、平田はM重工の名古屋工場の近くの独身寮から、辻は東京の目黒区にいた。O大のゼミや部からも来ていたが、保険会社に勤める者が結婚の写真を入れて送ってきていた。
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