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2013年2月26日 (火)

下り坂(79)

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 千代田線の国会議事堂前から職場までの道は首相官邸の前だった。官邸側の歩道は警察官の警備もひときわ厳しいので反対側を歩いた。官邸の主は宮沢・細川・羽田そして村山と変わった。哲也のほうは四月に主任に昇格してそれは同期と同じペースである。九月の実業団は中堅に入った。一回戦の相手はS銀行で哲也は梅田での出来事を思い出した。

 前の二人が負けて哲也は開き直って臨んだ。相手が勝ちを急いで面に来たのを得意の抜き胴で取ったものの、二本目は突きを食らわされた。そのまま引き分けに持ち込んだが、大将が負けて一回戦の壁は今回も突破できなかった。J航空やD航空が三回戦まで残ったのが悔しい限りである。そして十一月には四段チャレンジが控えていた。

 クジラの飛行機のキャンペーンの次は関西国際空港に関わるプロジェクトだった。アメリカのエアラインは、ハブ&スポークという路線展開で機材の効率的運用や集客に努めていた。日本の場合は東京に人が集まるのが自然だが、国内と国際の乗り継ぎは羽田と成田に分散されているのが難点である。

 日本各地から羽田に集まり、アメリカやヨーロッパに行くことができればA空輸には大変なメリットがあった。羽田は前年の秋に新しいターミナルができたものの、二本の平行滑走路と横風用の計三本の処理能力は限界があった。五年くらい先に新しいターミナルより海側に滑走路を移すと増便は可能だが、それが国際線に振り向けられる可能性は成田のある千葉県の反対で難しかった。

 関西国際空港は一ヶ月前にオープンした。大阪発着の国内線を伊丹と分散し、ここで国際線との乗り継ぎのネットワークを作っていくのが当面の目標である。それからJ航空が国内路線を広げていく戦略への対抗も必要だった。アメリカのP航空は国際線専門だったが、国内に基盤がなくて三年前に経営破たんした。国際線が中心のJ航空が国内のネットワークを広げようと必死になっているのも確かである。A空輸単独の羽田と富山・山口もいずれ狙われるはずだった。

 さらにJRとの競争も頭に置く必要があった。哲也が東京に来てまもなく、山形に新幹線が通じた。福島で東北新幹線から分離して在来線の線路を改良して直通できるようにしたのである。そして東京と山形路線は減便を重ねた。山形県などは思いとどまるように本社まで押しかけてきたが、ここは大阪を介して西日本へのアクセスをよくするとなだめるほうがよいのではと哲也は思った。

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