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2013年2月28日 (木)

下り坂(83)

前回までの 内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧くださいm(_ _)m

 地下鉄御堂筋線の梅田駅を利用することは大学時代ほとんどなかった。というよりも完済国際空港のある大阪南部に向かうこと自体が皆無だった。ちらりと覗いただけのかつての梅田駅はドーム型の天井の空間に両側が線路というホームが一本だけだった。それが南に向かう線路を平行移動してかつての壁の部分にいくつか通り道をつけてホームを広げていた。H百貨店の地下一階前の通路には各地の土産物を扱う露天が並んでいたが、通路がこぎれいになったのに合わせて無くなった。

 東京では運輸省や旅行代理店、国内支店と海外事務所との連絡が仕事の中心だったが、大阪では伊丹と関西の空港支店、航空貨物代理店、ときには荷主というように相手先が変わった。伊丹から国際線が関西に移動して、A空輸はようやく大阪からの国際線に乗り出すことが出来るようになった。空港の発着枠は悩みの種で、これが増えないことにはどうにもならなかったのである。

 大阪と上海を結ぶ路線は関西国際空港が出来てすぐに作られた。そして計画中のものは大阪とロンドン・ローマ・バンコク・シドニーである。旅客ならばツアーを企画するということになるが、貨物の場合は関西エリアの企業のビジネス動向が鍵になった。M電器やS社といった家電関係やファッション関係、医薬品、自動車部品、工作機械などターゲットとなる企業へのリサーチを航空貨物代理店最大手のN社とともに進めた。

 午前中はH電鉄グループと折衝して午後からは関西国際空港に出向くことになった。夕食は空港のレストラン街で済ませ、帰宅は午後八時くらいと見込まれた。梅田には戻らず、住吉大社の武道館に立ち寄っておく腹積もりとした。梅田から難波に地下鉄で移動して空港行きの急行に乗った。JRも大阪駅から関西空港まで直通する快速を走らせていたが、交通費精算はこちらが優位である。

 関西国際空港に渡る連絡橋は上が道路、下が鉄道の二段式である。沖合い五千メートルはあまりに建設費がかかりすぎだつた。大阪空港が朝七時から夜九時までしか使えないのはジェットエンジンの騒音が原因であり、この空港が陸地から離れているのも同じ理由となっていた。しかしながら空港が計画された当時に比べてエンジンの騒音を抑える技術は格段に進歩して連絡橋がもっと短くなってもよかったのではないかと言われていた。

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