何となく 何とでも
地方の私立大学教員の日常を 一人称で記してみました(≧∇≦)
朝七時を過ぎた京浜東北線浦和駅に大宮始発の電車が到着した。まだ残っている空席に腰を下ろした私は鞄からN経済新聞の出しているビジネスマガジンを取り出した。この路線はK大学の経済学部に通い始めて大学院の博士課程までずっと利用した。運輸省に勤める父の転勤で中学までは札幌・大阪にも住んだが、高校は浦和の県立高校で過ごした。父は運輸省から都内の外郭団体に天下りしてずっと浦和に住むこととなった。
駅に止まるごとに車内は人が増えた。月曜朝の憂鬱な気分もたまりこんでいたが、すぐ近くに立ったランドセルを背負った小学校低学年の女の子二人組がその鬱屈の中に唯一咲く可憐な花である。紺色の帽子に紺色の制服、なぜか黒のランドセル。彼女たちは田端で下りた。大人の女性が乗り降りしようが全く気に留めない私は、もしかすると心の病を抱えているのかもしれないと思った。
K大学で金融論を専攻した私は、銀行などに就職することもなく大学に残り、指導教官の紹介で福岡にあるS大学経済学部に専任講師として入ることができた。一年目は三年生のゼミ、一二年生向けのゼミの副担任、金融論を担当し、二年目になってからは四年のゼミにイギリス経済も持つことになった。イギリスとの関わりはサッチャー政権の自由化について一本論文を書いただけである。
浜松町に着くとモノレールに乗り換えた。月に二回のペースで福岡と東京を往復するようになってルートはモノレールまたは品川からの京浜急行だった。エアラインはA空輸でマイレージのカードを使っていた。J航空の747の事故は小4のときだった。ゼミ仲間でJ航空に内定した者に「後悔しないか」と言ったら「船会社じゃないから」と返された。彼は4年ほど勤めて家業を継いだ。
福岡に向かう便は747である。一つ遅いと777だった。エンジン2つの777よりも4つある747のほうが安心感があった。予約の時、富士が見られる左の窓は埋まるのが早くて二階の一番前から2番目の「72A」にした。ここは操縦席に近いがすぐ後ろの「71A」は窓から少し離れるため、避けていた。搭乗の案内があると前から2番目のドアから入って階段を急ぎ足で上がった。
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