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2012年12月11日 (火)

下り坂(24)

前回までの 内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧ください

 中堅戦は小手を一本取られて負けた。取り返そうとした副将は、面抜き胴で先行され、小手を取り返したが、最後はまた面に出て胴を抜かれた。静まりかけた会場にひときわ大きな打撃音が響いた。大将は面を狙うと見せて小手や突きから面などを試みたが崩せず、引き分けで終了した。

「応援おつかれだった。さぁ明日から受験勉強だな」

 観覧席に戻ると大将を務めていたキャプテンが一言発した。先鋒に入った上岡は次のキャプテンで、スタンバイの2人も二年生である。帰りは住んでいる場所によって国鉄か高速バスに分かれた。国鉄組は博多駅に向かうバス停に、そのほかは高速バスの止まるところまで歩いた。

 哲也たちが乗り込むとバスは満席になった。哲也は後ろのほうの座席に同学年の辻と並んで座った。彼は中学ではテニス部で、高校に入ってから初めて竹刀を手にした。バスはすぐに都市高速道路に入り、左手に博多港の倉庫、右手に国鉄の貨物駅を見下ろすように走った。

「盆の時はどうするんだ」

 哲也の問いに辻は熊本の親類を訪ねると答えた。移動は高速バスである。小倉と博多・博多と熊本はかなりの便があったが、小倉・熊本は1日5往復くらいだった。乗り継ぐと少し高くなるものの、国鉄に比べたら安かった。しかも親類の家は高速バスの停留所に近い武蔵塚である。

「俺のほうは山口県の萩かな」

 萩は母の実家があった。国鉄で行くつもりで、学割を申請していた。クラブは盆の前後1週間が休みだった。盆が明けると2段の審査が控えていた。8月に入ると3段の審査が4・5段と一緒に博多で行われるが、3段を受ける資格のある三年生は受験に専念すると言っていた。

 バスは都市高速道路を下りると古賀というところまで国道3号線を走り、古賀インターチェンジから九州自動車道に入った。北九州有料道路の紫川で降りると片野の交差点で左折した。ここを真っすぐ行けばN中があり、哲也の家にも続いていたが、哲也は小倉駅、終点の砂津まで乗って、そこから家の近くを通る93番に乗り継いだ。

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