下り坂(29)
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哲也と辻は同じクラスだった。バスの最後部にある荷物が置けるスペースに哲也は2人分の竹刀袋を置いた。女子はバスの前方、男子は後方に五十音順に並んだ。バスは阪神高速に入って大阪のビル街を縫うように走り、名神高速に入った。哲也は暇つぶしに三島由紀夫の「潮騒」の文庫本のページをめくった。さすがに数学や英語をやるのはお休みという状況である。
琵琶湖の近くで多賀というサービスエリアで小休止すると小牧まで行って明治村に入った。ここでは班ごとにまとまっての行動である。哲也たちは京都市電に乗ったり、井上靖が柔道に没頭した四高の武道場「無声堂」を覗いた。「この字を書き換えようか」と言った者が制帽のひさしで頭を小突かれていた。
昼食のあとは、高山に向かった。大阪南港を出てから約八時間という行程に一同はかなり疲れてしまっていた。宿は四か所に分かれ、うち一つだけ二キロくらい離れていた。明治村にいたときは曇り空だったのが、高山に着いた頃になると小雨が降り出した。素振りをしようという申し合わせは二日目にして終わってしまった。
三日目の午前は班単位での高山市内散策である。先に荷物をバスに積み込んで、傘を差して小京都と呼ばれる街を歩いて回った。そのあとは乗鞍岳に登る予定だったが、天気は悪いままで標高二千七百メートルの畳平まで乗鞍スカイラインで行くのみとなった。バスを降りると夏服では肌寒く、白い闇は十メートルも離れたらわからなくなる状態である。
三泊目は上高地だった。梓川に架かる河童橋の近くでバスを降り、橋を渡って白樺林の中に点在するロッジに分かれた。雨はずっと続いていて夜の素振りはまたもお預けである。夜が明けると再び班単位での上高地散策だった。このとき三浦のいるクラスで大正池で泳いだ者がいたと騒ぎになった。
上高地から松本に移動するとき、車窓には果樹園で赤くなりかけたリンゴがたわわに実っていた。もう読書をする気も失せた哲也はぼんやりと過ごしていた。松本城と開智学校を見て、霧ケ峰や白樺湖のそばを通って諏訪湖を見下ろすホテルに着いた。天気はよかったが、ホテルはバラバラになっていて哲也は辻と二人で駐車場の隅で素振りを行った。
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