« 東日本大震災(1675) | トップページ | 東日本大震災(1676) »

2012年12月23日 (日)

下り坂(34)

前回までの 内容は「文化・芸術」のカテゴリーでご覧ください

 哲也の乗った93番バスはいつもと同じように「K高校下」に来た。クラブ活動で登校する者が降りたが、共通一次を受ける三年生は乗ったままである。会場は2キロ先にあるK工業大学だった。1日目は国語・数学・外国語という重たい教科で、2日目が社会と理科だった。哲也は一番後ろの席でサブノートに目を通していた。

 玉竜旗は大将として臨んだ。初戦は山口県のU高校と当たり、哲也の前で勝利が決まった。2回戦は大阪のP学園で、野球の強豪だった。向こうの先鋒に4人抜きされて哲也に回って来た。勝ちを急いで面を取りに来たのを胴に返して一本取ったものの、鍔競り合いから引き小手を奪われて追いつかれ、そのまま終了になった。

 引退してから法学部ならどこでもという気持ちで受験勉強をしてきた。国公立は地元のQ大学で、私立は滑り止めにS学院大学を受けることにしていた。ここには部の先輩もいて「とうぜん剣道部だよな」となりそうな雰囲気だった。私立だけを受けるという者も多く、中田もその一人だった。

 広川は別の時間のバスに乗ったのか隣にはいなかった。彼も医学部ならばどこでもというスタンスである。三浦も医学部志望と聞いていたし、前日に会場で会った平田はQ大学の工学部を受けると言っていた。彼も玉竜に中堅として臨んだが、福岡国際センターは選手があまりに多くて顔を合わすことはなかった。T高校は3回戦まで行っていた。

 K工業大の正門には三年生の担任の先生が数人来ていた。キャンパスの中は広々としていたが、教室にはまだ入れなかった。1日目は雪も少し積もって寒かった。2日目も風が冷たい状態である。ここは現役が中心の会場で服装はおおむね黒や紺が主流だった。それに比べると市立大学は浪人生が割り当てられていた。開業したばかりのモノレールは満員の状態でタイヤがパンクするのではないかとモノレール沿線に住む者が言っていた。

|

« 東日本大震災(1675) | トップページ | 東日本大震災(1676) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 下り坂(34):

« 東日本大震災(1675) | トップページ | 東日本大震災(1676) »